調香師エルネストボー

　フランスのパヒューマー、エルネスト・ボーはロシアのモスクワ生れ。９８年、兄が総支配人のロシアのラレー社に入社。ラレー社は当時１５００人の従業員を有する世界最大の化粧会社で、彼のパヒューマーの第一歩は同社の研究所で技術担当の取締役のメルシュというパヒューマーに香水の製造技術を教えてもらてからである。始めての香水の創作は「ブーケ・ド・ナポレオン」物で、ボルディー戦争１００年祭祈念として創作され１９１２年にラレー社から発売、ボー自身も信じられないくらい売れた作品であったといわれる。
　第一次世界大戦が勃発すると、ボーはロシアを去り祖国フランスから従軍、北欧に駐屯した。北欧の晩春は真夜中でも太陽が輝く白夜の地で一帯には湖が点在、湖畔には美しい花々が吹き乱れ、一面に馥砿たる香りがたちこめる幻想的な辺境の夜であった。この幻想的な香りのイメージが、やがてその天分を発揮するボーの脳裏に深く刻まれる。　大戦後、祖国に引き揚げたボーはすべて失ったがパトロンの援助で１９２０年、カンヌの西方、ラ・ボッカでラレーの新会社を共同で創立する。　北欧での思い出をただちに香りに創作する仕事にとりかかる。　天然花精油、薔薇、ジャスミンなどを縦横に駆使し、それをひきたたせ、特徴づけるために、合成香料の数種のアルデハイドをたくみに組み合わせ、全く新しい香りを創作し得ることを、ボーはこの頃すでに知っていたようである。新会社創立前後に、現在のシャネル２２番、５番の母体を彼は創作し終わっていた。
　ところでココはすでにバリで流行の最先端をいくオートチュリエとして華々しく活動をしており、トータル・ファションとして香水へ関心を向けていた、すでに一廉のパヒューマーとして名をで成しつつあったボーを知らぬわけはなかった。ボーは、ココから香水創作の依頼を受けるや、いままで心血を注いでいできた創作品のうち、１番～５番と、２０番～２４番までの２つのシリーズをみせた。その時ココがとりあげたのが１つのシリーズの５番目のものであった。　ボーが名はと聞くと、彼女は、即座に、私の衣裳のコレクションの5回目の発表会を、今年の５月５日に催すことになっている５番という数字は私に好運をもたらすような気がするから、シャネル№５と名づけたいといった。１９２０年の発売以来、半世紀のあいだ、愛好されつづけているシャネル№５は、こうして誕生する。　№５につづいて№22を発表、ボーの名声は高まった。
　カンヌで公議が催されるたびに、ラ・ポッカにある彼の工場、研究所が業界や著名人に紹介されボーの新創作香水を知りたくて研究所をおとずれる見学者は列をなしたという。この後、ココ・シャネルのよき友人で、１９２０年にシャネル香水会社の創立に手をかしたポール・ヘルテメーとビエール・ベルテメールという兄弟が、アレクサンダー・ナポレオン・ブルジョワが１８３２年に創立した石鹸、白粉、香水製造会社を、１９２６年の春に買収し、シャネル・ブルジョワ社を創立するにおよんで、ボーはこの新会社のチーフ・パヒューマーとして招聘され、ラレー社を去って新会社で活躍し始める。１９２９年にブルジュワ側から彼が発表した「ソワル・パリ」はこの時期における名香の１つで、今日でもなお生きながらえているロングセラーである。
　ボーは、手記で、ハヒューマーとその作品について「香水は芸術品であり、ハヒューマーはそれを創作する芸術家である，音楽家が音階や音階発音練習を学び、画家がデッサンやいろいろの色調を学ぶのと同じように、ハヒーューマーはいろいろの単品香料を嗅ぎ覚えなければならない、香水を鼻で嗅ぎわけ分析したり、配合品種や割合を解析する訓練を積み、それを記憶し、再現しなければならない，そして一般の人々がもたない幻想的な世界を、魅惑的な香りによって示すことである」と述べている。
　彼は詩や文学の著書、音楽を愛し、フランス、ロシアの画家をしばしば訪れ趣味も多彩で陶器、絵画、ミニチュア、宝石、絨毯などに興味をしめした。また料理は玄人なみで、ワインの効き酒は一流であったという。　こうしたことは、彼が単に多趣味の人であったということではない、香りの芸術家として、広く異なった分野の芸術や文化を学び、理解し、それかを自分の創造性の糧にしなけれぱならない、という彼の哲学にもとづく生き万でもあった。
　また、パヒューマーはすぐれた芸術家と同時に、すぐれた化学者でなければならないと彼は常に考えていた。「化学は日進月歩し、新しい合成天目料がつぎつぎと生れてる。パヒューマーはこの新合成香料を駆使しセンスと独創に溢れた香りを創作しなければならないし、これがパヒューマーに化せられた仕事であり特権である。これこそフランス国家の資産の一部なのである」ボーはその手記のなかでこう述べている。
　天才パヒューーマー、ボーも、晩年は不遇で１９６１年、５月８日、南仏の寓居で淋しく８０年の生涯を閉じた。バリのノートルダム教会で葬儀が行なわれたが、いま、彼の創作した名香水の愛好者たちの記憶に、ボー名の記憶は無い。　画家、詩人などの芸術家の作品はその名とともに永久に残り続けるであろう。だが香水の創作者の名はサインとして残すことは出来ないからである。